
そこは杉並区と渋谷区との境界だった。食事をする店や酒屋は杉並区で、行きつけの喫茶店や本屋は渋谷区にあった。
商店街があり、下町風で東北や関西なまりの会話が聞こえてくる。道路はアスファルトで舗装され、ボクが住みついた木造アパートの敷地はコンクリートでうめつくされていた。一棟ずつ向かい合って建つアパートの一番奥の二階にボクの部屋があった。急な階段を上がると四室あり、正面左の部屋がボクの仕事場だ。陽当りもよく、周りには幸い高い建物もない。見晴らしの良い窓からの眺めが気に入っていた。階段の手前にある空間は奥がブロック塀で閉ざされていた。子どもの遊び場として格好の場所であり、親たちにとっても安心な空間だった。シートやゴザを敷いて遊んでいた子どもたちは階段を昇り降りしていたボクの姿をそれとなく見かけていたようである。
1978年の夏。子どもたちがチョークでコンクリートに絵を描いていた。ボクが「うまいナ」と声をかけたところ、「お兄ちゃん描ける?」と一人の子から返事がかえってきた。当時ボクはイラストや挿し絵を業としていた。周囲の人との接触もなく、朝ねぼうのフーテンぐらいに見られてもおかしくはなかった。ボクはすぐさま、子どもの差し出したチョークでたしか動物の絵を描いたように思う。どんな動物を描いたかははっきりしないが、ボクが描いた絵を見た時のキョトンとした子どもたちの表情は、はっきりと覚えている。
保育士や幼稚園の先生をのぞけば両親でさえ、絵を描く人はめずらしかったはず。ボクが描く姿を見て「大人のくせに絵を描くなんて・・・・」と子どもたちは不思議に思ったことだろう。
遊ぶ子供の声聞けば わが身さえこそ ゆるがるれ
(梁塵秘抄)
喜田川 昌之
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