コラム
喜田川昌之 わらべ絵館



HOME

ニュース

ご案内

ミュージアム

コラム







〒413-0232 静岡県伊東市 八幡野1208-59 ℡0557-54-7011

一三重の幼児園―
 もの心ついた頃、村の鎮守さまの宮司だった祖父は、机に向かって筆で俳画を描いていた。毎週、床の間の水墨画や書の掛け軸をかえていた。わが家では絵が生活の中にあった。ボクはひとりで絵をかいていた。おやつを食べるのと同じ気持ちで絵をかいて満足していたのだろう。
 ボクが育ったのは三重県の片田舎。一文字の駅名で知られる津市の郊外であった。1941年太平洋戦争が始まった年、満二歳だった。両親がつけてくれていた育児日誌「ベビーブック」を見ると
「ひとりあそびが好き」と書いてある。そういえば色のついていない無垢の積み木で遊んだ記憶(歳はわからない)がある。単純な三角や四角の木片をつかい変化をつけノッポの家を上へ上へと積み上げることに夢中だった。高く積み上げてはこわす。その快感にはまっていたようだ。
 大学卒業後、生家の事情で三重に戻った。滞在は三年間のつもりだったのが八年になってしまった。生家の経営する幼児園で園児たちに絵の指導をしているうちに逗留がのびてしまったのだった。色水を作っておいて二色を合わせると、たちまち変化して、新しい色がうまれる。その様子を見つめている子どもたちの姿は、年齢こそちがってはいても、かってのボクが出会った子どもたちの目と重なって見えた。
 あれはボクが大学三年の夏休みに各大学の漫研の仲間七人で福島県のへき地の小学校を訪ねた時だった。複式学級で全校の児童が十数人。絵を通して子どもとの交流は初めてのことだった。
ボクには新鮮に思えた。それ以上に最初のうち、あんなにはにかんでいたのに絵をかいて見せた時の目の輝きに驚いた。その残像はボクの心に色濃く焼きついたのだった。

 幼児園の子たちは、夏は金魚を手でさわったり、冬はたこを作って畦道を走りまわる。歳月はあっという間に過ぎて行った。ボクは再び東京に舞いもどり四畳半のアパート暮らしをはじめていた。

                       まさゆきお絵かき日記
 

Copyright (C) 2004-2006 Warabee Kan. All Rights Reserved.